こんにちは管理人のみつまめです。
昨日の398回のブログで、人生苦楽の「ああ無常」を綴らせていただいた。
そこで少し掘り下げ今日はみつまめの~人生哲学論~を綴らせていただいた。
この世はすべて表裏一体! 当たり前の日常こそが人生最大の幸せなのかもしれない ~みつまめの人生哲学論~
この世はすべて表裏一体、これがみつまめの人生哲学論だ。
昨日、「ああ無常」をテーマに、人生において災いに巡り合う人、巡り合わない人、その違いはいったい何なのだろうかとブログを綴らせていただいた。
ところが、その余韻も冷めやらぬうちに、またしても悲劇のニュースが飛び込んできた。
スペイン中部で発生した高速列車の追突事故。死者は69人に達し、乗客名簿には日本人2人の名前も含まれていたという。
さらに愛知県安城市では、工事現場で土砂が崩れ、作業に当たっていた親子2人が命を落とすという痛ましい事故が発生した。
亡くなられた方々のご冥福を心よりお祈り申し上げたい。
それにしても、何ともやりきれない。
列車に乗った人たちも、工事現場で働いていた人たちも、まさかその日が人生最後の日になるとは夢にも思わなかっただろう。
朝、いつものように目を覚まし、家族と何げない言葉を交わし、それぞれの目的地へ向かった。
その当たり前の日常が、ある瞬間を境に突然失われてしまう。
人生とは、何と無常で、何と不公平なものなのだろうか。
幸せと不幸は、いつも背中合わせにある
ここで、みつまめは改めて考えてみた。
同じ時代に生まれ、同じ社会で暮らしながら、災いに遭遇する人もいれば、何事もなく平穏な一日を終える人もいる。
その差はいったい何なのだろうか。
紙一重かもしれない(;^_^A
運命なのか、偶然なのか、それとも人知の及ばない目に見えない、何かが存在するのだろうか。
考えれば考えるほど答えは見つからない。
しかし、一つだけ確信していることがある。
この世に、明日の幸せを保証された人間など一人もいないということだ。
今日、笑っている人が明日も笑っているとは限らない。
反対に、今日、悲しみに暮れている人が、明日も不幸であるとは限らない。
人生には喜びがあり、悲しみがある。出会いがあり、別れがある。健康があり、病がある。
まさに表裏一体なのだ。
ただし、幸せと不幸が必ず同じだけ訪れるという意味ではない。
いつ、どちらの面が自分の人生に現れるのか、誰にも分からないということなのである。
ありきたりな日常こそ、最高の贅沢ではないか
さて、ここからは少し視点を変えてみたい。
悲惨な出来事ばかりを考えていては、人生が暗くなってしまう(;^_^A
そこで、今のみつまめ自身の生活を振り返ってみた。
朝、目が覚める。
屋根のある家がある。
蛇口をひねれば水が出る。
食卓には食事が並び、家族の声が聞こえる。
健康に気を配りながらも、自分の足で歩き、好きなことを楽しみ、こうしてブログを書くこともできる。
もちろん人生、何の不自由もなく、悩みも心配事もないというわけではない。
年齢を重ねれば体の不調も出てくるし、家族のこと、将来のこと、心配事を挙げればきりがない。
それでも、今こうして何げない日常を送れている。
これ以上の幸せが、いったいどこにあるというのだろうか。
人間とは不思議なもので、手に入れている幸せには鈍感で、手に入らないものには敏感になる。
もっとお金が欲しい。
もっと豊かな暮らしがしたい。
もっと自由な時間が欲しい。
欲望には際限がない。
しかし、どれほど財産を築こうとも、どれほど社会的地位を得ようとも、明日の命を買うことはできない。
そう考えると、毎朝、何事もなく目を覚ませることさえ、実は大変ありがたいことなのではないだろうか。
失って初めて気づく幸せでは遅すぎる
人は大切なものを失って初めて、その存在の大きさに気づくという。
病気になって健康のありがたさを知る。
家族を失って、何げない会話の尊さを知る。
住む家を失って、安心して眠れる場所のありがたさを知る。
何とも皮肉な話だ。
幸せの真っただ中にいるときほど、人はその幸せに気づかない。
これこそ、みつまめが考える表裏一体論の核心なのだ。
幸せとは、必ずしも何かを手に入れることではない。
すでに手にしているものの価値に気づくことなのではないだろうか。
毎日、同じような生活の繰り返し。
代わり映えのしない食卓。
いつもの家族との会話。
そんな平凡な暮らしを退屈だと思うこともあるだろう。
しかし、突然その日常を奪われた人からすれば、何としてでも取り戻したい、かけがえのない時間なのかもしれない。
そう思うと、今この瞬間をもっと大切にしなければならないと感じる。
不幸を恐れるより、今日という幸せを生きる
もちろん、人生に災いが降りかからないよう願うことは誰しも同じだ。
事故に遭わないよう注意し、健康管理に努め、災害に備える。
できる限りの努力は必要だろう。
しかし、どれだけ用心していても、避けられない災いが存在することも事実である。
だからといって、まだ起きてもいない不幸を恐れ、毎日を不安の中で過ごしていては、それこそ人生がもったいない。
明日のことは誰にも分からない。
だったら、今日という一日を大切に生きればいい。
家族と笑い、食事を楽しみ、好きなことに夢中になり、時にはくだらないことで腹を抱えて笑う。
そんな一日を積み重ねることこそ、人生の豊かさなのかもしれない。
人生の幸せとは、特別な一日を何度経験したかではなく、何げない一日をどれだけ大切にできたかで決まる。
みつまめは、そんな気がしてならない。
最後に、みつまめの「人生哲学論」を勝手に公開
この世はすべて表裏一体。
光があれば影があり、喜びがあれば悲しみがある。
しかし、光の中にいるときに、わざわざ影ばかりを見つめる必要はない。
反対に、影の中にいる人の悲しみを、光の中にいる人が忘れてよいわけでもない。
今、自分が平穏に暮らせていることは、決して当たり前ではない。
そして、その幸せは自分一人の力だけで成り立っているわけでもない。
家族がいて、社会を支える人たちがいて、多くの人々の営みの上に、私たちの日常は存在している。
今回の痛ましい事故の報道に接し、改めて命の尊さと、平凡な暮らしのありがたさを考えさせられた。
人生、何が幸せで、何が不幸なのか。
その答えは人それぞれ違うだろう。
ただ、みつまめはこう思う。
「何も特別なことがなかった一日」こそ、実は人生で最も幸せな一日なのかもしれない。
今日も無事に一日が終わった。
家族が元気でいる。
明日もまた、いつもの朝を迎えられることを願う。
それだけで十分ではないか。
そして最後に、読者の皆さんに問いかけたい。
皆さんは今日、いくつの幸せに気づくことができただろうか。
幸せは、遠くに探しに行くものではなく、案外、自分の足元に転がっているのかもしれない。
これが、みつまめ流「この世はすべて表裏一体」の人生哲学論である。
ああ無常。
だからこそ、今日という一日が愛おしいのである。

★いよいよ次回はブログ公開回数:400回記念に突入だ~(@^^)/~~~